道尾秀介『片眼の猿』の感想レビュー 自尊心を取り戻せ 真実に隠された人間の本当の魅力とは…
こんにちは。
yuu(@yu_yu211)です。
今回は、道尾秀介さんの『片眼の猿』を読んだ感想を紹介します。
道尾秀介さんの小説は、ミステリーでありながらも、「人間」を描いた作品が多く、『片眼の猿』も間違いなく人間の心の強さや弱さが描かれたディープな作品です。
そして、毎回期待を裏切らない大どんでん返しの展開。
ミステリーとしての面白さと、人間をテーマにした哲学的面白さを兼ね備えているからこそ、道尾秀介さんの作品は読者を小説の世界に没入させる魅力を持っているんですね。
それでは、『片眼の猿』について詳しくご紹介していきます。
この本はこんな人におすすめ
- ミステリー小説が好きな人
道尾秀介さんの作品はミステリー好きには外せないですね。 - 探偵物の小説が好きな人
『片眼の猿』は探偵事務所を舞台にした小説です。 - 大どんでん返しに驚きたい人
言わずもがな、道尾秀介さんの叙述トリックに騙されること間違いなしです。
道尾秀介『片眼の猿』のあらすじ
盗聴専門の探偵、それが俺の職業だ。目下の仕事は産業スパイを洗い出すこと。楽器メーカーからの依頼でライバル社の調査を続けるうちに、冬絵の存在を知った。同業者だった彼女をスカウトし、チームプレイで核心に迫ろうとしていた矢先に殺人事件が起きる。俺たちは否応なしに、その渦中に巻き込まれていった。謎、そして……。ソウルと技巧が絶妙なハーモニーを奏でる長編ミステリ。
新潮社HPより
『片眼の猿』の書籍情報
著者 | 道尾秀介 |
---|---|
発行日 | 2007年2月 |
発行元 | 新潮社 |
ジャンル | ミステリー |
著者のその他作品 | 雷神、月と蟹、カラスの親指、向日葵の咲かない夏etc |
道尾秀介『片眼の猿」を読んだ感想とレビュー
それでは『片眼の猿』を読んだ感想とレビューについてお話していきます。
叙述トリックに騙される
道尾秀介さんの作品の叙述トリックにはいつも騙されてしまいます。
『片眼の猿』でも例外ではありません。
過去に自殺してしまった秋絵の死の真実
主人公三梨幸一郎の耳に隠された謎
ローズフラットの住人の秘密
殺人事件の真実
全てにおいて、予想を超えた結末を迎えます。
道尾秀介さんの作品で多いのは、クライマックスでこれまで述べてこなかった真実が一気に吐き出されるパターン。
前半では読者のミスリードを誘うような断片的な情報がいくつも散りばめられています。
「え!?」と思ってページを巻き戻してみると、確かに核心に触れた記述はされていない…
秋絵の実家に泊まるシーンで、なんで両親がああも簡単に三梨を受け入れたのかとか、
マイミとトウミと帆坂くんが四菱エージェンシーに救出に来たシーンで、車を運転していたのがなぜ帆坂くんではなくてマイミとトウミだったのかとか、
違和感を感じる場面はいくらでもあるのですが、まさかの事実は予想もできない物でした。
どうして犬は鼻が効くのか…
それは犬の顔の半分が鼻だから
序盤に出てくるこの会話。
これが読者の最大の思い込みを誘っています。
私はこの一冊で3回くらい騙されました。
片眼の猿
物語の中で、片眼の猿とはヨーロッパの民話であると記載されています。
おはなしの内容は以下のような感じです。
昔、九百九十九匹の猿の国があった。
道尾秀介「片眼の猿」275p 新潮社
その国の猿たちは、全て片眼だった。
顔に、左眼だけしかなかったのだ。
ところがある日その国に、たった一匹だけ、両眼の猿が産まれた。
その猿は、国中の仲間にあざけられ、笑われた。
思い悩んだ末、とうとうその猿は自分の右眼をつぶし、ほかの猿たちと同化した。
ヨーロッパの民話として調べても、片眼の猿のような物語は見つかりません。
元になっているおはなしはおそらく、今昔物語集第5巻23話の舎衛国鼻欠猿供養帝釈語 第廿三。
小説で書かれている内容とは若干違いますが、こちらのおはなしが元になっているのだろうと思います。
原文は以下のような内容。
今昔、天竺の舎衛国に一の山有り。其の山に一の大なる樹有り。其の樹に千の猿住ぬ。皆心を一にして、天帝釈を供養し奉けり。
其の猿、九百九十九は鼻無し。今一の猿は、鼻有り。此の諸の鼻無き猿、集て、一の鼻有る猿を咲ひ蔑づる事限無し。「汝は此れ片輪者也。我等が中に交はるべからず」と云て、同所にも居らしめず。
然れば、此の一の猿、歎き侘る程に、九百九十九の猿、種々の珍菓を備へて、帝釈に供養し奉つるに、帝釈、此れを受給ずして、此の一の鼻有る猿の供養の物を受給ひつ。
其の時に、九百九十九の猿、帝釈に向て申さく、「何の故有てか、我等が供養を受給はずして、片輪者の供養を受給ふぞや」と。帝釈、答て云く、「汝等九百九十九は、前世に法を謗たる罪みに依て、六根を全く具さずして、鼻無き果報を得たり。此の一の猿は、前生の功徳に依て、六根を全く具せり。只、愚痴にして、師を疑ひしに依て、暫く畜生の中に生れたる也。速に仏道に入。汝等、九百九十九は片輪者として、麗しき者を咲ひ蔑る也。此れに依て、我れ、汝等が供養の物を受けず」と。
此の事を聞て後より、九百九十九の猿、我が身の根の欠たる事を観じて、一の猿を咲ひ蔑る事絶にけり。
簡単に現代語訳すると以下のような内容になります。
今は昔、あるところに山がありました。その山には一本の大樹があり、その樹には1000匹の猿が住んでいました。
猿は皆心を一つにして、帝釈天を供養していました。
1000匹の猿のうち、ほとんどの猿には花がありませんでしたが、ただ1匹の猿には鼻がありました。
鼻の無い猿たちは集まって、鼻のある1匹の猿を嘲笑い、「お前は我々の仲間ではない」と言って仲間外れにしました。
鼻のある1匹の猿は嘆き悲しみました。
999匹の猿は、さまざまな珍しい菓子や果物を持って、帝釈天に捧げようとしますが、帝釈天は受け取りませんでした。
しかし、鼻のない1匹の猿が捧げた供物は受け取ります。
999匹の猿は帝釈天に向かってこう言いました。
「なぜ我々の供物は受け取らずに、鼻のない1匹の猿の供物は受け取るのですか?」
すると帝釈天はこう答えます。
「あなた方999匹の猿は、前世で法を誹謗した罪によって、六根(目・鼻・耳・舌・身・意)を備えることができず、鼻を失うこととなったのです。鼻のある1匹の猿は、前世で徳を積んだことによって全てを備えています。ただ、愚かであったために師を疑い、この世に生まれることになったのです。1匹の猿はやがて仏道に入ることでしょう。
あなた方は999匹の猿は、綺麗な心を持った1匹の猿を軽んじて嘲笑ったのです。よって私は、あなた方の供物を受けないのです。」
このことを聞いた999匹の猿たちは、実は自分たちの方が欠陥を持って生まれた存在であることを悟り、鼻のある1匹の猿を嘲笑うことはなくなりました。
1匹の猿が999匹の猿にバカにされ、仲間外れにされるところまでは同じですが、そのさきの展開が違っていますね。
ここから派生した物語がいくつかあるのでしょうか?
ネット上では片目の猿と題した物語がいくつか語られているようですが、おおもとはこの今昔物語にあるような気がしますね。
『片眼の猿』の小説の物語の中では、自分の目に関する過去が原因でコンプレックスを抱えた冬絵に対して、三梨が「気にしないことの大切さ」を説き、冬絵は自尊心を取り戻します。
物語の中での片眼の猿のお話は、周囲と違うことに嘆き苦しみ、自分自身の片眼を取り除くことで周囲に同化することで平穏な生活を手にしようとします。
これは自ら自尊心を捨て去ることであり、生を受けたことを悲観する悲しい行為です。
周囲と違っていて当たり前であること、自分を大切にすることの重要性を説く三梨。
ここまでを含めて、今昔物語に描かれた猿のお話の展開になっているのではないでしょうか。
目に見えないものにこそ意味がある
小説のラストに出てくる言葉、
「眼に見えているものばかりを重要視する連中に、俺は興味はない」
この言葉は思っているより深いです。
人は無意識のうちに、自分のフィルターを通して見たいものを見たいように見て、解釈しています。
そして、見たく無いものは見ない、見なかったことにする。
人は日常的に、無意識的にこれを行っていて、本当の真実を知ることには恐怖さえ覚えたりします。
それが人の心の弱さでもあるのかもしれません。
物語の中では、三梨も冬絵も秋絵も直接的に視覚から得られる情報だけで、周囲から蔑まれて来ました。
人間として、本当に重要な部分には気づかれることも無く。
その結果、秋絵は自殺してしまい、冬絵と三梨は人と違う特徴を持った部位を隠すという行動をとっています。
自尊心を殺して。
自らも身体的に他者と違う部分を持ち、悩み、蔑まれてきた三梨は、人を外見でしか判断しようとしない人々に辟易し、身体的にギャップを抱えながらも前向きに生きているローズフラットの住人に人間的魅力を感じています。
人間にとって本当に大切なものは何なのか…
ということもテーマとされている作品ですね。
「眼に見えているものばかりを重要視する連中に、俺は興味はない」
という言葉の中には、小説の中で文字という視覚的情報から得られるものだけでは、ストーリーの真実を見抜くことはできないという意味も含んでいるように思います。
秋絵の実家に泊まるシーンで、なんで両親がああも簡単に三梨を受け入れたのか?
マイミとトウミと帆坂くんが四菱エージェンシーに救出に来たシーンで、車を運転していたのがなぜ帆坂くんではなくてマイミとトウミだったのか?
事実として描写された文章の中に疑問が浮かびますが、その真実は最後に描かれています。
小説を読んで、眼に見える情報に踊らされ、最後に明かされる真実に驚きます。
それがミステリー小説の醍醐味であり、面白いと感じる部分なのですが。
「眼に見えているものばかりを重要視…」
文字だけを追っている読者には到底分かり得ない叙述トリックが隠されていたことを最後に示唆する一文であることは間違い無いです。
さいごに
『片眼の猿』は道尾秀介さんの優れた叙述トリックに騙されること必至のミステリー小説です。
爽快感のあるエンディングも良いですね。
気になった方はぜひ一読あれ。
最後までお読み頂きありがとうございました。